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聖ヒラリオ司教教会博士    St. Hilarius E. et D.    記念日 1月 13日


 聖ヒラリオは325年頃、ガリア(現在のフランス)のボアチェ市に生まれた。両親は同国の貴族であった。ヒラリオは国で最も良い学校に入り勉学したが、異教者にあるにも拘わらず空しい世間の快楽を退けて、ひたすら学問にいそしんだ。というのは、心様の正しい彼は早くも異教の空虚にして理性にもとるものであることを痛感し、衷心から真理を求めずにいられなかったからである。
 ところが偶然一冊の聖書を手にし、それからというものは天主の聖寵の御扶助の下に熱心にキリスト教を研究し始めたがこれこそ自分が長い間憧れ求めていた宗教であると確信するに至り、遂に洗礼を受け、聖なる熱心に燃えてキリスト教的完徳に精進する身となった。そしてポアチエ市の司教が死去されると、その後継者選定の席上、彼は最上の適任者として満場一致司教に推挙された。
 天主の玄妙な摂理は、この学識深く、信仰篤い司教を選んで真理の擁護者とした。というのは他でもない当時あたかもキリストの神性を否むアリオ派の異端は、コンスタンチノ皇帝の支持を受けて燎原の火の如く、西洋諸国は勿論東洋にも広まったが、ヒラリオはこれに対し敢然戦いを挑み、弁舌に依り、文筆に依り、全力を挙げて破邪顕正に努めたのである。異端者達はこの有為な人物を味方に引き入れようと、百方手を尽くしたが、聖司教の信仰は牢固として抜くべからず、威嚇も甘言も遂にその効を奏し得なかった。
 そこで敵は手を換えて、今度は人民を煽動し、皇帝にヒラリオは国賊であると讒訴せしめた。所が皇帝はその言葉を信じ、あくまで志操堅固な司教を小アジアに追放してしまった。然しヒラリオは却ってキリストの為真理の為、苦しみ得る身の幸を喜びかつ感謝したという。
 故国を去る幾山河、遠い異教に流されても、彼の意気は少しも阻喪しなかった。彼はなおも信仰を擁護する為に力の限り闘い続けた。その頃彼は故国なる聖職者や信徒達に、しばしば手紙を送って、信仰に忠実ならん事を勧めているが、それらを見ても彼の信仰が如何に堅く、彼の学識が如何に深いものであったか、容易に推察されるのである。
 彼の流された地小アジアは殆ど全く異端に侵されていた。然し彼はあらゆる機会を捉えて教敵と論を闘わし、その天賦の雄弁と博大な学識とを傾けて正しい道理を説く所、敵は誰一人矢面に立ち得る者もなく、皆唯閉口沈黙するばかり、ついにはほとほと手を焼いて、この厄介な司教を早く故国に召還されるよう、皇帝に嘆願するに至った。
 ヒラリオ司教が久し振りで前任地のポアチエに帰った時、人々の歓喜と熱狂とは大したものであった。彼は帰国後更に異端の掃滅に力を尽くし、見事ガリア全土をその毒手から救い出すことに成功した。その為彼はある時司教達を召集して会議を開いたことがあったが、その結果彼等の信仰を悉く聖会伝統の教理に一致させる事が出来た。唯その中の一人だけは、どうしても異説を捨てなかったので、聖会から除名するの已むなきに至った。
 かくて幸いに聖教を謬説から免かれしめたヒラリオは、今度は教会内の綱紀粛正と信心の復興とに着手した。というのは、長い間の論争続きで綱紀も信心もおろそかになり勝ちであったからである。そしてこの企ても彼の熱烈な勧告により、というよりは寧ろ彼が実践躬行の模範により、間もなく立派に成功した。そして聖会には更正の活気がみなぎり溢れ、ガリアの人々は聖司教の不撓の努力により堅い信仰を得、最早アリオの異端も手を下す隙さえなくなったのである。天主御自身も如何にヒラリオの聖き活動を嘉し給うたのであろう、絶えず彼に力を添え、また彼をして奇蹟を行わしめられた事も度々あった。或る時彼が洗礼を受けずして逝いた小児を蘇らせた如きもその一例である。
 ヒラリオは366年1月13日、聖人に相応しい立派な死を遂げた。聖会は唯彼を聖人と崇めるばかりでなく、聖会博士という類い希な称号さえ贈っている。

教訓

 我等も聖ヒラリオの如くいつも正しい信仰の為に働こう。しかしそれには先ず自ら熱心に研究して、聖教の道理をいよいよ深くさとるように努めねばならぬ。善き信者は一度公教要理を学んだだけで満足せず、常に余暇を利用して、教理を研究したり聖教に関する書物を読んだりして、天主や宗教的真理に就いての認識を深めるようにすべきである。何となれば天主、及びその美しさを悟る事が深いほど、我等の天主に対する愛は増し、その御光栄の為に働く熱心も加わるに相違ないからである。